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「最高」の買取り。最低の仕事。

「第10回秋の古書市」搬出完了。

5回目出店のタケシマ文庫さんは売上新記録。
初出店BGMさんは目標を上回り、当店は横ばい。
4月以降117日間の外売り続きで、さすがに最後は在庫を枯らし、市場にも行けずどうなることかと思ったもののトータルでは何とか面目を保った。
仕事をもらっている立場上、売上には当然こだわる。書店さんに利益が出ないようなら即座に売場から退去する。
あるいは自分が場にそぐわない様に感じられるなら、これも同じく。

いい年をした中年が何を言っているのか、との向きもあろう(実際、書店員さん含めて売場では私がいちばん年嵩らしい)。
老醜をさらさぬよう、この2年はやってきたつもり。同時に古本屋は歳とっていくほどに深みを感じられる仕事であるという事が、
よくわかってきた。しかし売場の現在のありようでは、それを生かしきれないとも思う。腰痛がひどく体力の低下もあり、何とももどかしい。
以下少し泣きが入りますが。

この半年、老母の入院(病床逼迫で延期)、未熟者の姪は交通事故を起こし、大事な同業者がコロナ罹患、
見舞いや看病、介護に時間をとられてしまい、ほとんど休めなかったにもかかわらず、
不思議と泰然と日々を送ることができたのは、「本を読むこと」が3年ぶりに、またできるようになったことが大きい。
それは、出張買取のふとしたことがきっかけでした。

昨年の6月に店からほど近い、あるお宅に蔵書整理で呼ばれました。依頼主はドイツ語の先生で80代後半、独語辞書も編纂されている方でした。
脚が弱っておられるようで、這うようにして玄関に出てこられ、小さな書庫に招じられると、平凡社の「中世思想原典集成」など、
古本屋ならだれもが垂涎の良書が並んでおり、シメシメと内心ほくそ笑みながら、
ぺーたーはんとけ、はいんりひまん、じゃんぱうる、はいんりひふぉんくらいすと、、などと居並ぶ原書の背表紙の読めるとこだけ棒読みしました。
ワザと、ですが。。
すると先生は「君はドイツ語が読めるのかい!」と嬉しそうにおっしゃいます。ドイツ語どころか日本語も覚束ない愚生ですから、正直にかつ適当に
「いえ、古本屋は皆、背表紙だけは読めるものなのです」と申し上げても、先生はニコニコしておられました。
その日はアルバイトと二人で15,6箱ほども運び出し、それなりにお支払い差し上げて辞去しました。

ほどなくして、またお電話があり、2度目は辞書や辞典などの大型本の廃棄品でした。
3度目は、すぐ来てくれ、ということなので夜分に伺うと、随分と衰弱されていて、それでもご自分でやっと玄関まで押し出したように、
ひしゃげた段ボールに、茶けた背表紙の岩波新書がきちんと入れてありました。
お代を払おうとすると、「いや、もう君、お金はいらないよ。よくやってくれた。こんな時間にありがとう」と言っていただきました。
大したことはしてませんが。
チャイムを鳴らすと女性の声でハーイ、と返事があるのですが、玄関を開けても誰もいず、暫くして先生が這って出てこられるのでした。
(COVIDが蔓延していた頃なので、、)
玄関を閉める際に先生が、合掌して私の方を拝んでいるのが見えました。

昨年暮れに先生に売ってもらったものを整理していて、「共に生き、共に苦しむ」(霜山徳爾 著、河出書房新社)という本があり、
末尾に霜山さんの敬愛する、イエズス会のヘルマン・ホイヴェルス神父の本の中に引かれているという詩が孫引きされていて、
当時の私にえらく響いたので、ご紹介しますね。この詩を読んで暫くして、また本が読めるようになったのです。


「最上のわざ」

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、己の十字架をになうー。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であることー。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くためにー。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつ外していくのはまことにえらい仕事ー。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだー。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるためにー。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」とー。